業界人に聞け シリーズ@ 

 

はじまりは入社半年後の配置転換

大学では商科を専攻し、管工事業を取り扱う企業に営業職として入社したのがはじまり。
最初の6ヶ月間は必死に営業の仕事に取り組んでいたが、
「技術を覚えた方がいい!」と思い立ち、現場職への配置転換を希望した。
配属先が下請けの会社でそこからは苦難の道のりだった。もう奈落の底に突き落とされた気分。
学歴(大学出身)ということが受け入れてもらえなかった。
取っ組み合いのケンカも何度もした。
特に同年代の職人たちとは相いれなかった。
それでも1年間辛抱して経験を積んだ。

3日間の無断欠勤

本社に戻ってからは、必死に施工管理の勉強をしたが、対人関係が得意だったわけじゃない自分が、それに悩むまでに時間はかからなかった。
25歳の時、社会人としてのタブーを犯す。無断欠勤3日間。
正直、限界だった。
悩んだ挙句に先輩に相談することに。
「やめたきゃやめれば?嫌なことやっているのはお互い幸せじゃないし」
そういわれて我に返る。「いやまてよ。俺はそんなに必要とされてないのか?」
無性に腹が立ち。無断欠勤は3日目にして終了。
感じたのは一人じゃない感覚、孤独じゃなかったことに感謝した。
大切なのは技術より、コミュニケーション
「配管工」とか「管工事」と聞くと、ガテン系の技術を求められる仕事をイメージするのが一般的。
でも、実際は現場で作業というより、関係各所との調整や工期などのスケジュール調整といったデスクワークが基本。
だからコミュニケーション力がとても大切になる。

独立

昭和59年、38歳の時、突然、会社売却の話が持ち上がる。
この時、ナンバー3のポジションだった私にも何の相談もなく、もう話は決まっていた。
「従業員はどうする?」 瞬間的に脳裏をよぎった疑問に社長から「君が残って指揮をとってくれ」と言われたが、そんな気持ちにはなれなかった。
会社に裏切られたという気持ちをひきずったまま、思い悩む従業員の就職を同業者にあっせんしてまわった。「最後まで残って責任はとる」 それが自分の立場でできる従業員に対しての最後の仕事だと思った。
そんな時だった、「常務が独立して会社をやってくれませんか?」と3名の社員から話が上がる。
その当時は自分が経営する立場になることは全く想像していなかったのでびっくりした。
59年7月、ついてきてくれた3名の社員と一緒に、知り合いの子会社を50万円で買い取り会社を設立。
三光エンジニアリングの誕生
社名は買い取った時のまま。エンジニアリングという当時には珍しいカタカナ名が気に入った。

2つのピンチ

会社を設立して12年後、ちょうどバブルがはじけて2年経った時。
初めて手形が不渡りとなる経験をした。
この時ばかりは経営の甘さを痛感。
思い悩んだ末、全社員を集めて、紙くずに変わってしまった手形を見せ、これが不渡りだと説明することを選んだ。もう、社員に愛想を尽かされて会社を去る者がいてもおかしくない状況だった。そしてそれも覚悟していた。
「どうすれば維持していけますか?」
「私たちの給料を下げてください。それで会社を立て直してください!」
5人の社員が口々に言いだした。
まさか、そんな言葉が出るとは思わなかった。
この時の負債が6,000万。
想定外の絶望感を味わった。
3つの銀行に2,000万ずつ融資のお願いしてみよう。ダメもと覚悟だった。
「銀行は晴れているときに傘を貸し、雨が降っているときに傘を取り上げる」という話はよく聞く。
でも結果的に、融資は実行され会社は救われた。
どうやら銀行間で「あの社長なら大丈夫」と話が通ったらしい。
実は、資金繰り表、試算表を毎月提出していた。
そこを信用しての融資実行だったらしい。
「雨が降っているとき、銀行は傘をかしてくれる。」
そう実感した。
その2年後、2回目の不渡りを経験することになる。
前回のあと与信管理など必死に勉強していたので、自分のふがいなさに腹が立った。
得意先、取引業者を心情的に受け入れてしまう傾向、与信管理の甘さを悔やんだ。
断らなきゃいけない仕事もあることを思い知った。

初心を忘れず

振り返って思うことは嘘はつかない。隠さない。正直に付き合うことが大切ということ。
お客様にも社員にも真摯に向き合う。
今は当たり前となった資金繰り表、試算表は毎月出す。
それが、今につながっていると思う。
あの時の5名の社員は、今、会社の要となり活躍してくれている。
それが何よりの財産だと思う。
トップは自分一人で会社経営が成立するわけではない。
社員がいて。お客様がいて。協力会社がいて成り立っていることを実感する毎日。
おごらず謙虚に。
社員は「宝(財産)」 社員から信用される経営者でありたい。
社訓にもしている「初心を忘れず」私にとって、大事な言葉となっている。